かまぼこ博士のかまぼこ百科
「かまぼこ博士のかまぼこ百科」は、舞鶴かまぼこ協同組合の辻義雄専務理事(舞鶴市民から「かまぼこと博士」呼ばれています。)が執筆され、2011年から約4年間にわたり、舞鶴市民新聞に連載されたものです。かまぼこ、とりわけ舞鶴かまぼこへの愛に満ちた「かまぼこ博士のかまぼこ百科①~㊺」を順次、21回に分けて掲載します。読めばあなたも「かまぼこ博士」。そして、舞鶴かまぼこがとても食べたくなってしまいます。
なお、当コラムに掲載するにあたっては原文のままとし、日時や役職、社名等も当時のままとしています。また、今では存在しないメーカー、商品もありますのでご了承ください。
舞鶴かまぼこの発祥と歴史 かまぼこ百科①
関が原の合戦前のこと、忠興出兵の留守をあずかっていた幽斉が舞鶴城でわずか500名程度で、石田三成方の軍勢15000人に対して篭城戦を開始した。
普通に考えれば、舞鶴城がいかに難攻不落の城でもあったとしても、多勢に無勢の状態で勝負は時間の問題だったと思われるが、篭城を知った八条宮親王が古今伝授(古今和歌集の極意を伝える)の役目をもっていた幽斉を救ってほしいと後陽成天皇に嘆願したため、天皇から和議救済の使者が何度も送りつけられ、最初は固辞していた幽斉も、やがて天皇の意を汲んで城を明け渡すことを決めたのであった。
田辺城篭城戦が起きると、吉原の漁師さんたちは、食糧搬入に手柄をたてたので、あとで、細川幽斉さんから褒美として「浪打際三間 勝手次第たるべし」(波打ち際の数メートルの土地は、仕事に好きなように使ってもよろしい)と漁業独占のお墨付きをいただいたと伝えられている。
地元の歴史に詳しい加藤晃先生によると、吉原町はそのころ、国道175号線北側の海際にあったらしく、京極時代になって、若狭街道が掘を渡る橋は「魚棚橋」(後に伊織土橋)と呼ばれていたそうである。
今も国道27号線京都銀行の南あたりは魚屋町だが、細川時代から魚屋さんたちは吉原町の続きのそこに住んで生魚を売るだけではなく、干したり、焼いたり加工しての販売に精を出してたようである。
そうした産業が盛んになるにつれ魚屋町は、海を埋め立て静渓川まで広げられていったということである。
現在のような板についたかまぼこは天正年間(1573~1592)につくられ始め、江戸時代に入ると蒸して作る様になり、さらに表面を焼いて日持ちをよくするなどの工夫がされるようになったというが、舞鶴でも豊富な日本海の魚を使ってかまぼこが作られ、髙作(代表 高野真一氏)のように、文政年間(1818年~1830年)に創業したかまぼこ屋さんが、今も残っており、伝統の製法で舞鶴かまぼこを作り続けている。
「舞鶴かまぼこ知ろう館」では、原料のお魚のすりみを煉る石うすや、大正時代に使われていたかまぼこの小道具を展示しているが、それ以前のものについては、主産地であった吉原地区が二度の大火と台風などにより壊滅的な打撃を受けたことにより、残念ながら、ほとんど残っていない。
江戸時代から創業しているかまぼこ屋さんには、当時、お城へ収めるかまぼこの添え書き(現在の納品書のようなもの)が残っていたらしいが、これも何回か工場を建て替える際に紛失してしまっている。
当時、舞鶴かまぼこの青年会(青葉会)で、当時、城へ献上したかまぼこを再現する取組みをおこなったことがある。昔はこのように鮮やかな色素はなかったと思うが、植物などの汁で色をつけていたと考えられている。 いずれにしても、昔から、かまぼこはおめでたい出来事の時のハレの食べ物で、当時は、かなり高級な食べものであったようである